天心の父岡倉覚右衛門

岡倉先祖家系図 天心の父岡倉覚右衛門
岡倉先祖家系図-岡倉由三郎作
yuko
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私、ゆう子が書いた天心と我が祖父の関係(叔父・甥)のブログを見られた
学芸員の方が、「空前絶後の岡倉天心展」を開くにあたって、
当方に出目の事等の問い合わせがあり、それに答えて当方が調べた我が家の家系図等を提供しました、
その部分は「岡倉天心」と云う169ページもある分厚い本(弟子達の194点の名画等)に記載してあり、
その縁があってこれをテーマにして出す事にしました。

第一弾は、天心の父親 岡倉覚右衛門

近代日本における技術指導者として知られる岡倉天心は、福井藩の物産を扱う貿易商岡倉覚右衛門の
次男として1863年(文久2)年に横浜で生まれました。
天心は福井との縁が深く、両親はともに福井の出で、乳母「つね」(橋本佐内の親族)に実質育てられ、
橋本佐内の影響を受けて育ちました。

 父親 岡倉覚右衛門の出目・経歴
覚右衛門

文政2(1819)年 籠谷村敬松家の分家、農家の中井七郎エ門の次男として生まれ、
口減らしで、親戚の福井藩士 清水惣右衛家に奉公にだされ、

福井藩の弓道大会で弓の上手を認められ、岡倉覚右衛門の器量を見込まれて、
18歳で福井藩士の岡倉勘右エ門家の養子になる。

元々、岡倉家は福井県坂井市出で、下級階級に属し、出世コースから外れた家柄であったところ
(新番格以下)、福井藩の横浜貿易の拠点「石川屋」を任されることになった。

一介の士卒から才覚によって横浜商館の「石川屋」の支配人となった覚右衛門は、
生糸を外国に売り、珍しい舶来ものを輸入して、福井藩の財源にした他、
国内外の情報を収集して、江戸藩邸に報告する探索方のような、仕事も兼ねていました。

相当頭の切れる進歩的な人物であったようで、後の天心が国際感覚に優れた分野で才能を
発揮したのは、このような父の姿を見てからと考えられます。

天心の弟の岡倉由三郎(英文学者)の回想によると、覚右衛門は子供の教育については厳格で、
コマ回しなどは絶対させず、天心が物心ついた頃には、通常の読み書きの他に、居留地の外国人教師
(ジェームス・バラ)から英語を、長延寺住職から漢学を学ばせ、東西に偏らない英才教育をしました。
(そのお陰で彼は英語の通訳が出来るほど堪能でした)

石川屋

明治2年(1869年)版籍奉還で福井藩という後ろ盾をなくすと、「石川屋」をたたみ清算し、
元々が福井藩のモノなので、清算金をきちんと返納しています。

石川屋
横浜大通りに面した石川屋生糸店

ほどなく岡倉一家は東京人形町へ移って旅館業を始め、息子の岡倉天心は東京外国語学校に行き、
さらに東京開成学校 ⇒ 東京大学と進み、大学に召請された文学部教授アーネストフェノロサの通訳で、
日本美術研究を手伝う中で、日本美術に開眼し、卒業して文部省官僚となってからは、フェノロサと
共に日本美術復興運動に身を投じました。

こうして天心は欧米文化崇拝の風潮の中、廃仏棄釈等で衰退し、打ち捨てられていた、
日本美術に新たな息を吹きかけ、日本美術の救世主となりました。

新番格以下

(新番格以下)とは福井藩の下士のお記録方(身分記録帳です)

新番格以下
新番格以下
新番格以下

父岡倉覚右衛門はおそろしく算術に長けていて、筆跡が獅子流の流れをくんで、
俗俳風が達者であったらしく、安政2年1月16日、身分が 組の者から諸下代に昇り、
俸禄も切米一石を増やされ、8石2人扶持を宛がわれるようになった。

2月5日、仮役として台所頭配下の御台所下代となる、

4月26日には御納戸役配下の下代(手代)に転役となって、秋には江戸詰を命じられる。

安政5年、福井藩は神奈川・横浜の警護を命じられたので横浜に拠点を作った、同7年下代から小寄合格し、

万延元年(1860)「横浜商館手代勤」を命じられる。

長女仲の夫坪田官次が国元福井藩で諸下代になり、慶応2年(1866)その養子坪田健太郎が召し抱えられ、
覚右衛門は平民になり、岡倉家(坪田家)は明治2年(1869年)廃藩置県を迎えた。

明治6(1873)年、「石川屋」を閉店し、東京の福井藩下屋敷(現人形町1丁目)に移り旅館業を営む。

横浜人別帳

元治2(1865)年、横浜人別帳に 全右衛門(岡倉覚右衛門の別名46歳)、女房 のこ(32歳)、
倅 覚蔵 4歳、召使・常吉、竹次郎と記載有り、

横浜人別帳

安政4(1857)年12月28日に岡倉から改姓し、坪田覚右衛門と名乗った。
(通称名が金右衛門潜右衛門全右衛門勘右衛門と複数名乗ったとある)

福井の物産を外国召喚に売る他、外来品物を輸入して藩士たちを喜ばせた。
その姿は福井藩家老 本多修理の慶応4(1868)年日記にも何度か登場している。

文久3(1863)年11月27日、越州屋全右衛門(岡倉覚右衛門)から江戸藩邸の福井藩士宛の書簡が収録されている。

その年の8月、京都では薩摩、会津藩ら公武合体派によって、長州藩ら尊王攘夷派は京都から追放され、(八月十八日の政変)12月には、福井藩主松平春嶽ら公武合体派の雄藩大名6名が、朝廷から政治参与を命じられた。

そのような激動の時代、天心の父は藩に必要な様々な情報を伝えるだけでなく、外国人(バァン・リード)からもらった珍しい植物の種を京都の藩主の元へ届け、その心を和ませた。

福井藩巣鴨下屋敷には数10種のセイヨウリンゴが植わり、松平春嶽は「リンゴの父」とも言われるが、その種の入手経路には天心の父の人脈が一役買ったのであろうか。

                                               福井県史資料8  平成10年(1998年)

生糸商いの仕切書(決算書)が発見された。
仕切り書

文久2年(1862)荷主の越州屋全衛門が斎藤治兵衛に宛てたもので、堤糸、手引糸、撚糸を
英国人クラークに販売したと云う内容の仕切書

書簡
福井藩藩主松平春嶽から、天心の父覚右衛門に宛てた手紙、
「病状はいかがか、気候も不順だが養生を第一に」、と病態を気遣う内容、
藩士時代にはお目見えすら、許されない程の低い身分の覚右衛門だったが、
横浜商館「石川屋」勤めになって以後は親しい関係にあったようで、
両者は俳友だったかも知れない。
發句: 「青柳の いとより細き 軒の雨」
覚右衛門の俳号は:月夜庵由とある
春嶽から覚衛門への書簡
「天心望郷詩」

「山匝堂詩草」の中に「天心望郷詩」 天心の著の詩も
帰らばや 幾年月の 山と川
旧き友また 落ちぶれて
故郷としも なかりけり
(意訳)ふるさとへ帰りたいなあ。故郷を出てから幾年たったろうか、
あの山もあの川もなつかしく目に浮かんでくる。
共に野山をかけ巡った友はどうしているだろか。
聞けば、皆落ちぶれて貧しく、故郷は、もう遠くなってしまった。
それでも、やっぱりもう一度故郷へかえりたいなあ。(則元三雄訳)

覚右衛門が度々、郷里福井藩との連絡に帰省した際、実家の篭谷に天心を預けて、
自分は藩との協議に当たったとある。天心はこの地を故郷と思っていて、
望郷の思いがあったのであろう。

岡倉覚衛門家系図

野畑のこ家系図
野畑のこ家系図

※参照&引用・・・本「岡倉天心」 福井県立美術館 発行