榎並充造の生涯 ・経歴(プロフィール)(1879年~1951年)
我が家の母親系の祖父榎並充造のプロフィール、
多種多様で様々(約100以上)な起業を起こし、経営し、
神戸市商工会議所常設議員等の要職を務め、
神戸商工会議所の第17代神戸商工会議所会頭に就任する等、
神戸市の教育界や財界に多大な貢献をした人物です。
榎並充造の生涯・経歴を紹介
身上書
明治12年(1879年2月7日)兵庫県神戸市で質屋を営む 神戸の旧家の榎並彦五郎の長男として出生した。
神戸中学校(県立神戸一中)を二期生で卒業し、早稲田専門学校(早稲田大学)の政治科を卒業、
志願兵として軍務につき、少尉(後備陸軍歩兵少尉)に昇進して正八位を賜っている。
明治37年(1904年)に父・榎並彦五郎が死去した為に相続し、実家の質屋を継いだ。
しかし、質屋と云う暗い体質にあわず、「美男子で社交好きときては、地味な質屋は向かない。
質屋は番頭に任せて出歩いていたし、もっぱら遊ぶほうを引き受けてた。
派手な性格は、人をもつけ入りやすかった。」と、雀部昌之介(バンドー化学前副社長)は
自叙伝「私は六十年社員」において、こう記述している。
その時、日本毛織を創業していた義兄・川西清兵衛から、布製ベルトの開発者の阪東直三郎を、
紹介されたのがきっかけで、阪東式調帯(バンドー化学)の社長のなり、
以後、多数の起業を起こした。
神戸経済界への貢献
榎並充造は、坂東式調帯(現 バンドー化学)と内外ゴムの社長、
朝日海上火災保険・川西倉庫・神戸生糸・昭栄汽船・阪神国道自動車・神戸市議会議員、
神戸市商工会議所常設議員等の要職を務め。神戸財界で活躍した。
1937年〜1941年に神戸商工会議所の第18代神戸商工会議所会頭に就任した。
アルゼンチンで、綿作殖民事業を目的で、日亜拓殖株式会社を創立した。
教育界への貢献
昭和9年5月、榎並充造は神戸女子薬専 (現 神戸薬科大) の経営にも手を貸し、
学校債1万円を引き受けて建物を建て、学校施設を広げた。
昭和7年4月、旧 関西学院跡に開校、昭和8年2月、御影町の報徳商業跡に移転、
昭和10年4月、(現東灘区本山北) に建設した新校舎落成とともに同地へ移転、
昭和24年の新学制で発足した時の学校財産の1億1千万円も引受け、
その後も、3千㎡(約900坪)の土地を寄付している。
又、昭和5年には親和高等学校(現 神戸親和女子大学)の理事に就任した。
社会奉仕への貢献
孤児院「神戸真生塾」の理事長、兵庫県共同募金の委員長を務める。
友人との関係
岡崎忠雄(石丸忠雄)神戸一中での親友、神戸財界でも助け合った。
岡崎藤吉に男子が無かった為に、兄の石丸忠英の息子(石丸忠雄)を婿養子にした。
佐賀県出身。慶應義塾大学理財科卒業。
神戸銀行を創設し、1931年(昭和6年)神戸商工会議所会頭に就任した。
榎並充造の家族
- 父:榎並彦五郎
- 母:りゅう
- 妻:てる (明治13年生)榎並直五郎の庶子(次女)
- 長女:たみ子(明治43年6月生)山下三郎 (山下汽船常務)と結婚
- 次女:エツ子(大正8年2月生)友人4人の発起人でベビー服のファミリアを創設し、晩年は監査役に就任
- 長男: 榎並正一 (大正元年生) 坂東調帯の副社長
- 榎並正一の妻: 迪子(死別)・幸子 (後妻 藤野三一の長女と次女)
- (孫)榎並正三:(榎並正一の子・慶應の経済学部卒 母は迪子)
- (孫)榎並元子:(榎並正一の子 ・母は幸子)
榎並江つ子
★次女: 榎並江つ子(田村江つ子大正8年2月生)甲南高等女学校(現 甲南女子大学)卒業し、
田村寛次郎(繊維問屋 田村駒治の次男として生まれ)と結婚、
終戦後の物の無い時代に、友人(坂野敦子、村井ミヨ子、義姉の田村光子)4人の発起人とで、
神戸でベビー服のファミリアを創設し、絵が上手なので手芸部分を担当し、晩年は監査役になった。
2016年にNHKの朝ドラ マの秋番組「べっぴんさん」で多田良子(百田夏菜子)役で放送された。
べっぴんとは(特別な品という意味)
親戚との関係
川西清兵衛(かわにし・ せいべえ)
(榎並充造からいえば、日本毛織を創設した川西清兵衛は、従姉(榎並ふさ)のムコにあたる)
【1865年~1947年まで】慶応元年に大坂で生まれる。
日本毛織㈱を創業した実業家で、川西財閥の創業者、
明治29年 (1896) 神戸の実業家27人を発起人として日本毛織を創立し社長に就任。
昭和毛糸紡績、共立モスリン、山陽皮革、神戸生糸など多数の関連企業を設立して、
川西財閥を形成する。日本の繊維業界を牽引した人物
明治40年(1907)兵庫電気軌道(現・山陽電気鉄道)設立。神戸と明石 姫路を結ぶ電気鉄道を開業。
大正 7年(1918)川西倉庫株式会社を創立、
大正11年(1922)㈱伊丹製絨所(谷江長社長)の相談役に就任
昭和 3年(1928)川西航空機(現・新明和工業)設立し、次男 川西龍三を社長に就任させる。
昭和3年(1928)昭和毛糸紡績株式会社を創立し、取締役社長に就任
昭和 3年(1928)日本羊毛工業会会長に就任、
1928年 勲三等瑞宝章賜る
昭和13年 (1938年) 神戸商工会議所会頭に就任。
昭和22年(1947)公職追放令により追放さる。
(戦前に紫電改・九七式飛行艇等、戦闘航空機を作った関係か?)
昭和22年(1947)11月19日 川西清兵衛没す、83才
昭和25年(1950)故川西清兵衛 公職追放令解除される
川西清兵衛の家族
- 実父:筑紫三郎助 (江戸時代: 実家の父親は蝋燭製造業)
- 母:土岐国女(京都、土岐茂左衛門の長女)
- 養父:川西清兵衛(先代 川西清兵衛の養子になる)
- 妻: 榎並ふさ(榎並直五郎の長女)
- 長男:川西清司(日本毛織社長、川西倉庫取締役、㈱伊丹製絨所役員
- 次男:川西龍三(川西倉庫社長、川西航空機(現 新明和工業)社長、日本航空専務)
川西 清司
川西清司:川西清兵衛の長男(日本毛織社長、川西倉庫取締役、㈱伊丹製絨所役員
川西 龍三
川西龍三:川西清兵衛の次男(川西倉庫社長、川西航空機(現 新明和工業)社長、日本航空専務)
川西航空機(現 新明和工業)
戦前作られた飛行機
戦後の新明和工業の製品
US-1型救難飛行艇(救助艇)や タウンパック(ゴミ収集車)等生活用品を制作製造
川西清兵衛と榎並充造・谷江長との関係
★「川西清兵衛の妻 榎並ふさ(榎並直五郎の長女)と榎並充造の妻 てる(榎並直五郎の次女)が
異腹姉妹で川西清兵衛と榎並充造は親戚関係に当たる。
★川西清兵衛(日本毛織社長)と谷江長(日本毛織常務取締役) は社長と役員社員の関係で、
この三氏は繊維業界等や他分野で協力や援助しあい、神戸財界に尽力した人々である。
★谷江長は㈱伊丹製絨所の社長も兼ねてたので、榎並充造とビジネス関係があった。
その関係か、我が家の父 谷江敏男(谷江長の次男・大学教授)と 榎並充造の庶子
大倉芳枝は(京都女子大を結婚の為、中途退学し)お見合い結婚をしていた。
大倉芳江の実家は神戸市兵庫区矢部にあり、全敷地は150坪位だが、
6歳で養子入籍した叔父の大倉忠一が、自営業の商売資金の為に、小刻みに売却し、
現在は他家名義になっているが、上記の[蔵]が、今も現存して残っていた。
外壁は新しく塗り替えているようだった。
もう、110年くらい前の建物だが、昔の蔵は凄く丈夫に建築されたものである。
晩年-終活
榎並充造は、晩年に体をこわしたから、お酒が大好きで、人柄もよく、交友関係が広かったので、
大勢の親友に感謝の礼をするため、満68才の誕生日となる昭和22年11月18日に、須磨の自宅で生前葬を営んだ。
そして、昭和26年2月7日(1951年) 菩提寺の抑接寺で、戦死した社員の霊前に拝礼中に、
心筋梗塞を起こして逝去した、享年72才(数え年)であった。 拝礼
榎並充造の事業に対する経歴書
神戸新聞社発行、作成された「海なりやまず」から、榎並充造の功績等が記載されている、ものから、
内外ゴムとの二本立て
4ページあるので、右横のバーをスクロールしてページ出し、ご覧ください。
榎並充造、女子薬専も援助
2ページあるので、右横のバーをスクロールしてページ出し、ご覧ください。
「海なりやまず」神戸新聞社発行